(過去の)コーイチコラム


VOL5 「もう一歩」2004.7.23

VOL4  「さよならだけが人生ならば」2004.3.9

特別編 「ぼくの音楽漂流〜これまで、そしてこれから〜」 (上) (中) (下)

VOL3 「ワルツ」2003.5.10

VOL2 「うつりかわり」2003.4.24

VOL1 「近況 駄々駄々書き」03.2.22



 

コーイチコラムVOL5
「もう一歩」2004.7.23


[「あなたにも 私にも 生まれもった 宝物がある 何歳(いくつ)になっても構わないよ それぞれの空に届くように 踏み込んでみよう もう一歩」

ぼくが女性シンガーの生の唄を聴いて、初めてびっくりしたのが須山公美子だった。なんだか知らないが、「まだこんな人がいたんだ」と強く心に思ったのが14年前。噂にきいていて、ついにそのCDを手に入れて、それを聴いて、いてもたってもいられなく、大阪へ呼んだのが火取ゆきで7年前。あまりにもインパクトが強く、自分の人生までにも影響を与えた女性シンガーはそんなにいたわけではない。3年前、アコーディオンの良原リエと再会して、また一緒にいろいろとライブをやることができた。
そんな中で紹介してもらったのが、「原果里(はらかりん)」である。彼女からデモのMDを送ってもらった。そして聴いた。・・・・ハマッてしまった。毎日彼女の唄を聴いてしまうとは、どうしたことだろう。どの曲もすばらしいのだが、不思議に口ずさんでしまうのが、この詩である。「ものごとの奥まで見抜こうとする原果里の正直で潔い歌は、それだけでは済まない人間の厄介な現実とまともに向き合わせてくれる〜中川五郎(音楽評論家)」、と五郎さんも書いてるとおり、なかなかこの詩を唄えるシンガーは稀であるとぼくも思う。2年間の休息ともいえない時間を経て、また新たな舟に乗って航海を始めたぼくだが、舟の操作もまだまだわからず、もう荒波ともつれあったりしてる。そして原果里もまたアルバムという魂を持って新しい航海に旅立っている。そんな中で彼女と出逢うのは偶然の中の必然であるのかもしれないと勝手にぼくは思っている。とかく8/13に初めて生の歌声が聴けること、ぼくの人生にまた影響を与えてくれる、すばらしいシンガーとの出逢いをぼくは楽しみにしている。
「狂気[キョウキ]の狭間で 人は生きてるから はかり知れぬ悲しみの裏で 喜び感じれる」
そう、そうなんやね。ぼくももう一歩、踏み出すようがんばろうと思う。]


以上は2年前にジンジャーマンカフェのペーパーで書いた「星屑の詩」という我がコラムの再録である。その原果里が今年の夏(初秋)もまた大阪と京都に唄いにやってきてくれる。2年前初めて彼女の唄を聴いて、本当に惚れてしまった。ただ2年前の出逢いはあまりいいものではなかった。見切り発車で航海に出た「ジンジャーマンカフェ」はすぐ舟底に穴が空いて、既に航海不能になりかけていた。いっぱいいっぱいのぼくには彼女の唄は本当に救いのようだった。彼女があまりに美しく大きく見えすぎて、なぜか彼女に不遜な態度をとってしまったのだ。もう二度とライブしてもらえないだろうな、と思っていたが、昨年思い切って彼女を呼ぶことにした。東京から快く彼女は大阪までライブに来てくれた。昨年のライブはやはり短命に終わることが決まっていたギャラリー「iddワークショップ」。でもその前の年と違ってぼくの心は軽やかだった。じっくりと彼女の唄を聴けた。彼女ともいろんな話しができて、同い年ということもあり、敬愛して止まないシンガーの一人として自分の心に刻みつけられた。 その彼女が今年は彼女のほうから声をかけてきてくれた。うれしかった。
ただぼくのほうの状況は現在音楽活動を休止せざるえないところにきており、彼女の生唄を聴けるのかも危うい。そんな中、今年も新しいアルバムを持っての凱旋であるが、新しいアルバムの曲を中心に唄う以外に特別に「もう一歩」を関西でだけ、ぼくのために唄ってくれるという。

「希望は人を今日も生かす為の 誰にでも与えられた証だから 二度とは来ない今の自分のページに 今日の日も刻んでいこう」
『唄とは音楽とは希望なんだ』と15年前ぼくに言い切ったのはシバだった。

原果里の唄は人生の応援歌であり、本当に荒んだ心にやわらかな光を差し込んでくれる。何度も何度もCDを聴いてると、また明日という日を生きれるのだ。 ライブの打ち合わせのメールや電話のやりとりの中で、ぼくのプライベートのことまで本当にいろいろ心配して激励の言葉をくれた果里ちゃん・・・心からありがとう。人間から唄が染み出しています。 決して自分のえこひいきや好みだけではなく、エンターテイメント性も秘めた彼女の唄を是非たくさんの人に聴いて貰いたい。心からそう思っている。

「いつまでもいつの日も 変えてはならないものが一つ 胸に響いている鼓動の意味
 目を閉じてそっと触れたなら 信じてみよう もう一度」


 

コーイチコラムVOL4
「さよならだけが人生ならば」 2004.3.9


さよならだけが
人生ならば
またくる春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いてる野の百合なんだろう
==寺山修司

寺山修司のだいたいの詩は、福島泰樹の「短歌絶叫コンサート」で福島さんが絶叫し ていたので、そのイメージが長い間しみついていた。
テラヤマが主宰した劇団天井桟敷の女優で蘭妖子さんの2枚目のアルバム、寺山修司 全作詞の「サマータイム〜海を下さい」が出たのはテラヤマ没後20年になる昨年だ った。 昨年の6月28日に蘭さんは東京で、そして私は大阪で、同じ寺山修司を口 ずさんでいた。奇しくも、同じ「岸田」の名のつく、寺山の仲間「岸田理生」さんが 亡くなった日でもあった。偶然とは一体なんだろう。

あまりにも寺山修司に犯され過ぎた自分自身に、自分と母親の関係を謳った、寺山の 長編詩「李庚順」という作品にその6月28日に私は挑戦した。
以下の文は、その時の宣伝案内文

[岸田は寺山修司の「李庚順」という母親殺しの戯曲を朗読します。「母親殺し」は、 母と息子との関係性を問う、一つの答えです。岸田もテラヤマと同じく母一人、子一 人の生活。母と息子、この関係は永遠の絆でもありますが、その関係を断ち切らなけ ればならないエポックでもあります。越えなければいけない、一つの壁として岸田は 挑戦します。岸田コーイチ表現生活十数年の一つの節目としてのライブコンサートに したいと思います。]

このコンサートが終わってから、自分自身の中のテラヤマの呪縛が解かれたような気 がした。それからは、逆にテラヤマ作品を謳っても、テラヤマ、テラヤマ・・・にな らない自分である。
蘭妖子さんの2枚目のアルバムは昨年秋ころに手にいれたが、ほとんど聴かなかった。 あまり聴きたくもなかった。それはやはり、テラヤマテラヤマ・・・・に戻ってしま う危険性を自分自身孕んでいたからではなかったか?

蘭さんのコンサートをミノヤホールで企画、上演してもう9年くらいになる。当時は 寺山修司のことなど知らなくて、音楽の面でしか、蘭さんをとらえてなかった。無知 とは恐ろしいものだ。蘭さんの心を傷つけることを私はそのコンサートの打ち上げで 彼女に言ってしまった。今でも本当に後悔している。そんな私にも蘭さんは良くして くれた。私が東京へ公演しにいった時に見に来て下さったり、数年前に近鉄劇場で蜷 川幸雄演出、藤原竜也主演の「身毒丸」を見に行って、公演前これも偶然、近鉄百貨 店で蘭さんとばったりと出逢った。お互いの偶然に驚きつつ、再会はうれしかった。
2000年には万有引力の公演「レミング」で蘭さんの舞台を見た。
でも未だライブのお誘いにはのっていただけない。ひどいことを言ったのであたりま えだな、と思う。でも、私の音楽の師である、三上寛や下田逸郎のルーツだった寺山 修司が私の中で色濃くなり、蘭さんのライブの再演は必至のことなのだと。そんなこ ともあって、蘭さんの唄う新しいアルバムにはなかなか入れなかった。京都の知人の 純子さんから、今年頭に京都で蘭さんのコンサートがあるらしいと聞き、私のところ に案内が無かったのは悲しかった。

事務所を1月にたたんで、自宅に荷物がぐちゃぐちゃになっていて、少し片づいた時、 CDの封印を解いて蘭さんの唄声を聴いた。その中で何度もリフレインして聴いてい る唄が、「幸福が遠すぎたら」である。ピアノだけで唄う、この唄にいろんなものが 去来する。もちろん蘭さんのこともそうだが、自分の今のことこれからのこと、よく 行ってた居酒屋がつぶれていたこととか、友人知人が亡くなったこととか、さみしい ような悲しいような、それでも生きているありがたさとか、いろいろな想いが溢れて だから何回もこの唄を聴いてしまう。

「蘭さん、ぼくもこの唄、自分のライブで唄わせてもらってよいですか?」・・・

今私には経済的にも精神的にも蘭さんを大阪に呼ぶ力は無い。でも自分が企画したい 指の中に入るコンサートであることは間違いない。蘭さんとゆっくり話しをしてみた い。時期がくれば必ずまた逢えるのだと思っている。だって今までの偶然が実は「必 然」であったように。

さよならだけが
人生ならば
人生なんかはいりません


 

コーイチコラム特別編

2002年に刊行された「胡散無散(うさんむさん)VOL.13」に掲載された
岸田コーイチ手記「ぼくの音楽漂流」の元原稿をここに発表します。
人にときめく関西のマガジン誌として親しまれてきた胡散無散(うさんむさん)
ですが、残念なことに先日休刊となってしまいました。
胡散無散に敬意を込める意味と胡散無散では割愛された、書ききれなかったことも
含めて、自分の送ってきた十数年の音楽人生を振り返り、新たに明日に向かって
がんばろうと思います。くだらない雑文ですが、読んでくだされば幸いです・


「ぼくの音楽漂流〜これまで、そしてこれから〜」 (上)


ぼくの音楽漂流〜これまで、そしてこれから〜 オレペコ企画 岸田コーイチ
 2001.12.3 記
(文中敬称略)

昔、人が人になる前、動物に近かった頃、わめいたり、鳴いたりした。
回りにある、いろんなものを叩いたり、吹いたりした、音の始まりだ。
人が人になっていく行程と合わせて、音が音楽になっていった。
以来音楽は、人と切っても切れない関係になった。
 また音楽はその名前とは裏腹に、苦難の歴史が生み出されたものでもある。
クラシックの作曲家の命と引き替えに出来た作品、人種差別から生まれた、
黒人のソウルミュージック、盲目のため芸として門浸けに廻ったという
津軽三味線など・・・、数えればきりがない。 
ぼくにとっての音楽とはなんだろう?? 
音楽じゃなくて「音苦」になることも多々あるが、
それなのにそれに関わることをやめれない。昨日も今日も、
「もうやめよう、もうやめたるっ!」と思うのだが、明日になれば、
またやっている自分がいる。
それがいいことなのか悪いことなのかさえもわかっていないが、
それでも続けているのは「性」なのだろうか? 
でも一つだけ言える。ぼくは音楽が好きなのだ、と。

 88年ころだったと思う。ぼくは、外食産業の一つのコマであった。
働くことで、クタクタにさせて、全てを忘れようとする生活に、
若さだけで走ってきた限界で、精神も身体も悲鳴をあげた。
「俺は何をしてるんやろ」の疑問が出てきた時に、
「COMICばく」という漫画誌にふれた。
そこで出逢ったのが「つげ義春」だった。
つげの「無能の人」がリアルタイムで載っていた雑誌も終焉を迎えた時の
出逢いで、その終焉記念に東京で、つげの原画展が開催することを知り、
東京まで足を運んだ。
その帰りに、吉祥寺にあるライブハウス「MANDA−LA2」という
ところにフォークシンガーの「三上寛」という人が出ることを知って、
初めてライブハウスの門をくぐった。「三上寛」、テレビのドキュメント番組に
出ていたことを思い出して、その人間臭さに惹かれるように入ったのだ。
 そこでぼくが見たものは、感動ではなく「怒り」だった。
でもその「怒り」があとあと、自分を突き動かすパワーになるとは、
その時は夢にも思わなかった。翌年改めて、三上寛のライブへまた、
吉祥寺に足を運ぶ。「大阪ではやらないんですか?」とぼく。
「20人くらい集まったらいくよ」と
その場で三上は連絡先を教えてくれ約束してくれた。
関西の情報誌のライブハウス覧を見ると、その時はバンド最盛期。
ギター1本で弾き語りする人が出る小屋が見つからなかった。
そこで1件、憂歌団の木村充輝や有山じゅんじなどが弾き語りをする
小さな喫茶店を見つけ、そのお店に交渉しにいった。
そして90年2月にその場所で三上寛のライブを行った。
そして何故そんなことを思ったのか??
前座で自分が歌わせてもらうことになったのである・・・。
思えばあの日から、「裏方」と「表」という両方の自己表現をすることを
始めたのだった。再び5月に、三上を大阪へ呼ぶことに。
その場所、なんばに今でも現存するライブハウス「BEARS」は、
あの「モダンチョキチョキズ」が誕生したという大阪インディーズ界の
穴場で、店長の山本精一は「想い出波止場」や「ボアダムズ」、
「羅針盤」・・・というカルトなユニットでも活躍する
ギタリスト&ボーカリストだった。
話しを持っていったとき、彼は延々と音楽の、特にアコースティックの
音楽の話しを語ってくれた。
三上寛のライブを行うことを本当に喜んでくれ、なんと2日間の日程を
組んでくれた。
一日目は前座にロックバンドを。2日目はアコースティックの
ミュージシャンを。そんな熱い山本が紹介してくれたのは、
二人のミュージシャンだった。
その一人が、ぼくの音楽生活に多大なる影響を与えた、須山公美子だった。
三上寛2DAYSの2日目のメンバーは、既に例の喫茶店で知り合った、
AZUMI、そして前述の山本の紹介による、リクオと須山であった。
今考えると、なんて豪華な面子やろうね。最後に「夢は夜ひらく」を
全員でセッションしたことも今となっては夢語りやね・・・。
  同じ年、10月またまた三上寛をBEARSに呼んだ。この時のメンバーが、
あらゆるものを超越してしまった天才ギタリスト、灰野敬二と、
フリージャズの草分け、ベーシスト故吉沢元治だった。
フォークは三上から、フリーは灰野から、ジャズは吉沢から、というところから
入ったぼくの音識は、大いなる偏りであったが、それはまたいろいろな音を
受け入れる、大きな器作りの第一歩でもあった。
 須山公美子を聴いて、「まだこんな人がいたのか!」という衝撃が走った。
「まだこんな人・・・」というのがなんで出てきたのかはわからないのだけれど、
何か懐かしいというか、うたのすばらしさというか、
そんなものを感じたのかもしれない。
いつしか須山のステージの手伝いもするようになっていった。
 例の喫茶店(名前を出せばいいのだが、あえて出さないことにする)
のほうにもお手伝いにいって、いろいろなミュージシャンとも知り合っていった。
 その流れとは、もう一つ違う流れにも出逢う。それは前述の「つげ義春」
関連の漫画家仲間であり、そしてシンガソングライターでもある、
二足のワラジを履く男、三橋乙揶ことシバであった。始めての出逢いは、
つげ義春同好会の主催する、那須高原の温泉行で、ジンを酌み交わしつつ、
朝まで語った。それから、90年9月にシバのツアーを組んだ。
それからは、年に2〜3回大阪に彼を呼ぶようになった。
その次の年に呼んだときに言われたセリフ
「おまえはヤクザになれるか? 本気でやれないんだったらやめちまえ!」
という一言が、
「ほな、やったろやないか!」という勢いで、決定的にぼくがこの世界で
やっていく、きっかけとなったのだった。
 91年、24歳という、厄年が見事に華開いて?? 自動車事故は起こす、
家庭状況も良くなく、またライブのブッキングを始めたのはいいけれど、
右も左もわからなく、どこの馬の骨がやっとんねん!という白い目で
ミュージシャンから睨まれ、信用もなかった。今思えば、
不幸のどん底の時期だった。そんな時、須山のライブで知り合った、
ギターの仲豊夫の紹介でミノヤホールを知った。あるシンガーのライブブッキングをするために、ミノヤに訪れた時、担当の井上利夫が、「うちでやってみぃへんか」と誘ってくれたところから、約7年間のミノヤホールでの生活が始まる。


「ぼくの音楽漂流〜これまで、そしてこれから〜」(中)


「人が人を呼び合って場所が創り上げていかれた。」
 これがミノヤホールであった。

最初はライブといっても、わからないことばかりだから、随分つまずいたし、アマチュアのミュージシャンとはケンカするわ、プロのミュージシャンからは悪い言い方だが「カモられた」。
バンドブームから徐々に「アンプラグド」などと言われるアコースティックがブームとなってきた時代とうまいこと融合して、アマチュアとプロ弾き語りから始まったミノヤライブは、前述の灰野、吉沢のつながりもあって、どんどん迷路のような方向へ画策し出した。神戸で活躍するフリーミュージックのギタリスト内橋和久をはじめ、様々なフリーミュージックの音楽家たちが集まってきた。そしてそれは、日本人だけでなく、フランスから、オーネットコールマントリオでも活躍したベーシスト、バール・フィリップス、オランダのサックスメン、アトゥ・パイネンブルクなどたくさんの外人もやってきた。
また須山の紹介で知り合った、ピアニストの吉田幸生からシャンソンの世界が拡がった。以後、シャンソンはどんどんと、ミノヤライブの柱となっていった。上司の井上の仲間であった「いつどこ倶楽部」の面々も、うたごえ喫茶の末裔?といった、一種独特のジャンルを作りだし、彼らもまたこの場所で歌った。

 7年の間には、目まぐるしくいろいろな状況が変化した。運営する母体が2回変わり、スタッフもぼくだけとなった。だから7年の間は病気一つしなかった。いや熱がでても、腹が痛んでも現場に出ていた。若さと粘りと意地だけがぼくを支えていた。

 よく、「ライブだけでやっていけることが不思議」といろんな人がいうことを耳にしたが、ミノヤホールは実は貸しホールがメインだったので、皆さん知らないところで、いろいろ動いていたのですぞ。バブルの時は今思ってもゾっとする狂喜乱舞の企業の忘年会やオールナイトのサルサパーティー、新興宗教の例会、ネズミ講の集会、ディスコパーティー、プロモーションビデオの撮影、テレビ、ラジオの公開収録、メジャー??アーティストのファンクラブの集い、ピアノ発表会、交通安全免許更新講習、啓発セミナー・・・などいろいろやってるでしょ。そしてミノヤを支えてくれたのが、東京発信の某声優教室だった。
年間契約をしてくれていたので、これが実はミノヤの運営を支えていた。しかし97年にそれがうち切られることとなり、7年の疲れの蓄積も限界に達した時に、ぼくは自らミノヤを辞める決心をした。あとのことは何も考えず・・・。

そして98年3月にミノヤホールを去った。


「ぼくの音楽漂流〜これまで、そしてこれから〜」 (下)


そんな時に、S社(ここも未だ現存する会社なので名前は伏せる)のI(これも匿名)部長という人から、「コークステップホール」(現ビッグキャット)のブッキングをやりませんか? という話しが来た。何も考えてなかったので、とりあえず返事をした。しかしコークのブッキングといっても、コークの空き日にモノを入れるというものだったので、S社の本社ビルの十三に欧風パヴの店があるので、合わせてここでライブをやってみたら、ということで、98年4月より「レッドライオン」がスタートした。昔取った杵柄で、飲食業には慣れていたので、ホールコンサート的なミノヤとは違い、飲食でお客様が楽しんでもらえるシチュエーションは、これはこれでまた良かった。おいしい料理が食べれて、静かに音楽を楽しんでもらう、というコンセプトは徹底的に守った。演奏中、会場は真っ暗にし、オーダーを受けず、従業員の余計な動きは一切押さえた。そのコンセプトに賛同してくれる人達が増えていき、ライブハウスとしてのレッドライオンは徐々に、徐々に盛り上がり始めた。会員というのを募ってみようかと思ったのもそんなことがあったからである。せいぜい40人くらいかな、と思われた会員募集は閉店までに80人を越え、うれしい悲鳴をあげた。
また音楽内容も、ミノヤの稚拙な実験的なものから、考えた組み合わせ、ここでしか聴けないという、独自のブッキングを始めだした。しかしこれも意図したものではなく、全く自然な流れで派生してきたものだ。人と人をくっける、接着剤のような役割のぼく・・・。中でも、吉田幸生を中心としたユニット「音やかん」はレッド誕生から終焉までの2年半、レッドでしか聴けない伝説のユニットとして活動した。この時から「プロデューサー」という名前でよびだされたような気もする。でも残念なことに、あれだけミノヤで実験的に繰り返されていた、フリーミュージックとは場所の雰囲気もあってか、どんどん縁遠くなっていった。
 コークは結局、98年中に閉店したので、ブッキングしたものは、10本にも満たなかった。また雇われた条件と大いに違っていて、自分で経費を出す、いわゆる「腹切り」をしなければならない状態になった。音楽というもので食べて行くには、演奏以外の分野では、賢いのと少々の図太さと汚さくらいがあって、やっとご飯がたべられるようになるのかもしれない。ミノヤ時代、散々苦しんだ、身銭を切ってライブをやる、という図式には戻りたくなかった。幸いなことにレッドは経費がほぼ下りたので、生活は安定していた。しかしここに来ての、自腹切りはショックだった。そんな、コークのブッキングしたコンサートの一つに、故西岡恭蔵の「CDクロちゃんを歌う発売記念コンサート」があった。まだ10年前の駆け出しのころ、恭蔵のコンサートも何度かブッキングさせてもらったが、ミノヤの時、仲違いして、それきりになっていた再開だった。「こういう大事なコンサートをなんでぼくにやれいうんかな? ほかにもようさんやってくれる人もいるはずやのに?」 恭蔵にそれを薦めたのが、田川律であり、東京のK企画、元ジァンジァンのマネージャー菊地廣であった。ミュージシャンだけでなく、同業でがんばっている先輩がたから、任せる、と言われたのは、とてもうれしいことだった。上記二人を除いた、同業の先輩たちは、みんなシビアな目を持っている人達なので、やはり駆け出しのころは、いじめ??でもないが、似たような目に何度かあったので、実はつきあうことを嫌っていた。
また子分になる気もなかった。でも本音をいうと、仲間に入れてほしかった。でも彼らには、受け入れられない余裕のない状況というものがその頃にはあった、ということが今だからわかる。
コンサートの前に、恭蔵と会った。緊張して何を話しただろうか。でもまだ心から彼を受け入れられなくて、なんて心の小さい自分だったか・・・。9月22日、前日から当日の昼まで台風だったため、コンサートは中止かと思われた。でもそんな中お客様が91人も来て下さり、スタッフも含め、コンサートは静かに盛り上がった。しかし次の年、恭蔵は帰らぬ人となる。

2000年7月16日、会社から、突然店を閉め解雇という、1ヶ月前通告をされた。
シンガーの下田逸郎はそれを「一般社会の限界」と言った。
ぼくも「青天の霹靂」だとは思ったが、ミノヤホールから始めての10年を振り返るにはいいのかもしれないと、「一般社会の限界」を受け入れた。
開店から2年半という、短い期間で、レッドライオンは消滅し、跡地にはジャン◯カラオケができた。

そんな駆け足の10年で一番哀しかったのは、何人かの親しいミュージシャンが亡くなったことだ。文中のほかにも、ピアノの村上ユミ子、ギターの家高毅、詩人の平川恒、フリーミュージックの渋谷浩之・・・ほか数名。人は必ず死ぬといっても、その現実が受け入れられない。彼らが未だ生きていて、電話でもかかってくるような感覚をまだ持ち続けている。この場を借りて冥福を祈るばかりだ。

その後、1年とちょっと、一応「オレペコ企画」という名前で、何故か、ライブ企画とは名ばかり?でまだ活動している。でもそれも限界が来ている。しかし「一般社会の限界」ではない「個人の限界」である。個人とは小さなもので、ハコを持っていた、いやいわば城を持っていたぼくが、城が壊れたら、城に守られていた自分に気づいた。新しい城を建てたいが、それもままならず、浪人暮らしにも疲れてしまった。でもまだ何かを追っている。

 音楽とは、必要なものだろうか? 仏教では八戒に「音楽や舞いをすることを禁じる」とあるが、それは、音にまかしての堕落を説いているのだろう。だからこそ、奉納演奏というものもある。要はどこまで責任を持って真摯に「音楽」に接するかなのである。
 そういうことであれば、音楽は切っても切り離されない、ぼくたちとの関係になるし、
ぼくはそれに真摯に取り組みたい。

 そして最後に、単純にぼくはやっぱり、音楽が好きだ。音楽というものと一生関わっていきたい、と思う。
 苦しい時に友人に泣き言を言ったとき、言われた言葉がとてもうれしかった。またそんなものだと思った。「未練があるんやったら、タラタラやらなな!」 
ほんと、未練タラタラである。

オレペコ企画 岸田コーイチ 2001.12.3 記


 

コーイチコラムVOL3 「ワルツ」 2003.5.10


「流れてそして君 ぼろぼろになるのだや君

 夢は果てなく 宙舞い 雲みたいに 漠々と あるのだや

 生きても 生きても ワルツ
               死んでも 死んでも ワルツ
 出逢いも 出逢いも ワルツ
               別れも  別れも  ワルツ 」

                 [友川かずき 「ワルツ」]


 「ときわ」(元HARVEST)のボーカリスト、西野美樹ちゃんが
5月5日に亡くなった。肝不全とのことだった。
享年35歳、ぼくより一つ下。
ミノヤホールの時代、多分95年くらいからのつきあいになると思う。
確か、呉ひとしさんを通じて、出演の依頼をしてきた・・・
記憶があまり定かでない。

 ミノヤホールでいつのころからか、
我が企画で「HARVESTのおともだちになりたいわぁ」というシリーズで
月〜隔月に1回、彼女らと全く関係のないゲストプレイヤーを入れて
音の世界を拡げた。美樹ちゃんも非常に楽しんでくれて、喜んでくれた。
ただ、全てのライブがうまくいったわけではなく、失敗したライブもあった。
思えば、そういうことがあった頃から、美樹ちゃんの心は不安定であったのだろう。
 純粋が故に、心の病となって自分と戦っていた美樹ちゃん。
ぼくには心を開くことはしなくなったし、ぼくも無理に開ける気も無かった。
でもいつかは、一緒にライブをやる限りは(作り手と演り手)いろいろと話せる日が
来るだろうから、と思っていた。

彼女と何の話しをするつもりだったろうか? 
触れてはいけないものに触れるつもりだったろうか?

それが心残りだ。 でもその必要も無かったのかもしれない。

美樹ちゃんの唄だけは、ずっと自分の中に同化されている。

「ヤルゴ〜イの花」 「グリーン・オブ・エデン」と
今も声がする。

家高毅も村上ユミ子も平川晋も渋谷浩之も紬のお父さんも
アピアのママも、西野美樹も、死んだという実感が未だ無い

悲しいというより、虚しい、という感情だけが
自分を支配する

5月9日に、高槻のダヴ・テイルで弾き語りのライブをしてきた。
ときわの唄を唄いたい、と思ったが、やっぱりそんな簡単に唄える
ものではない。

なんとなく、じわじわと唄いたくなったのが、友川かずきの「ワルツ」だった
 
 生きても 生きても ワルツ
 死んでも 死んでも ワルツ
 出逢いも 出逢いも ワルツ
 別れも  別れも  ワルツ

流れるテンポはワルツ、下田逸郎は同じく「ワルツの時間」という自作の唄で
友川と同じことをささやいている。

「ワルツ」は、ぼくのテーマでもある。

 パダム パダム パダム 私を狂わせて
 パダム パダム パダム それでも唄うのよ
 パダム パダム パダム 白く塗り込められた
 生きることも死ぬことも 全て一つの音
         [岸田コーイチ詞 パダム・パダム」

今年の5月4日で、没後20年を迎えた寺山修司は

 ぼくは不完全な死体として生まれ
 何十年かかって
 完全な死体となるのである

 ぼくは世界のはてが
 自分自身の夢のなかにしかないことを
 知っていたのだ

と、のたまっている。

完全な死体となるまで、ワルツを口ずさむことが
美樹ちゃん、そしてアピアのママへ通じることと
ぼくは信じている

「生きとし生けるものは、唄を口ずさみ歩く
 それでも唄う唄は、悲しい、やさしいワルツ」


 

コーイチコラム VOL2 「うつりかわり」 2003.4.24


 今年に入ってから、目まぐるしいほどに物事が移り変わっていく・・・。

 2月にアピアのママが亡くなったということは前回のコラムでも書いたが、同じ月に紀行作家の宮脇俊三さんが亡くなられたことを先日知った。宮脇さんは代表に「時刻表2万キロ」という本の著者であり、昭和の時代、日本の鉄道完乗、というあまり誰もやらなかったことを成し遂げた人である。鉄道が好きなぼくは、昔、彼に憧れてファンレターを出したら返事が返ってきて、とてもうれしかったことを覚えている。そんな宮脇さんが亡くなった・・・。

 人の死だけではない、ものも無くなる。閉店につぐ閉店。お気に入りの店ほど、どんどん閉まる。阪急東通商店街に「LPコーナー」というレコード屋さんがあって、ジャズのレコードがいっぱいあった老舗だ。ここが3月でつぶれた。4月の中川イサトさんのライブの時に、彼にその話しをしたら「ぼくなんか、あそこでいろんなレコードこうて育ってんで」とたいへんびっくりされていた。2Fのジャズコーナーには名物のこ〜い、おばちゃんがいて、若い時の梅津さん(梅津和時:サックスブレーヤー)の話しなんかもしてもらった記憶がある。その当時音楽もなんも知らん自分なんかがちょこちょこいっていたのだから、やっぱ魅きつけるなにかがあったんだろう。あのおばちゃんも数年前に亡くなったことは風の噂では聞いていた。

 人もものも無くなって、古き良きものが、たくさん壊れて、新しいものはできるけど、新しいものはすぐ壊れるので、残ることのほうが少ない。そんな中で我がプロデュース、idd workshopのライブがこの4/19、静かに港を離れた。1回目の鈴木亜紀ちゃんのライブは可もなく不可もない、という感じだった。まだまだ場所とアーティスト、そして作り手のぼくたちが喧嘩をしている感じ。それでも立派に舟は走り始めている。そう、走り始めたということにもっと感謝しなければと思っている。そして一緒に舟をこいでくれる、中沢聡や、溺れそうになってるところを助けてくれる西野欣哉、島田篤、吉田幸生などのミュージシャンのみんな、関係者の人たちに今一度、本当にありがとう。

  幸せというものは隣に転がっているが、隣を見なければ、幸せということがわからない自分がいる。

 4ヶ月間働いてきた飲食店、深夜〜早朝のアルバイトを今月いっぱいで辞めることにした。真夜中という魔物には勝てなかった。その中で知ったことは、人はみんな寂しく生きているということだけだった。そして何よりも自分が一番寂しかったりもする・・・。人はどんな時にでも実は声をかけられることを期待している、とはなんの書物に書いてあったことだろう。でも真夜中の魔物はいろんな形でそれを見せてくれた。そこに食事に来る人もまた流れに翻弄されていることさえ気づいていないのだろう。今度は自分が声をかけていく人になりたいと思う。 

 もののうつりかわりは激しいが、その流れに流されるのも眺めるのも、溺れるのもうまく泳ぐのも自分自身だろう。あらためて自分自身を見つめる時期が来ているのだと思う。でもまだまだその流れを冷静に見るには時間がかかりそうだ。


 

コーイチコラム VOL1 「近況 駄々駄々書き」 03.2.22


 オレペコ日記を玉砕して、とうとう管理人にしのに日記のコーナーを強請撤去されてしまった。

 日記を書かなかったのには、ワケがある。書くとここのところずっと続いている自分の生活のグチになりかねないから。それだけ今しんどい生活が続いている。それでもHPになんの近況も書かないのはどんなものかと、不定期的なコラムなら、「日記」のような制約もないから、とりあえずこれで始めてみようかと・・・。

 さて近況だが・・・。グチは書きたくないと言ったが、やっぱここは我慢しないでグチろう。 昨年の12月からアルバイトに行き始めた。これが本当に、音楽とはなんの関係もないところ。昔取った杵柄で「飲食業」。12月18日オープンしたその店は「めしや丼扇町店」。この店で週5日ほど毎日23:00〜7:00という時間にホール係として働いている。接客、掃除、仕込み、一人で8時間立ちっぱなし、休憩無し・・・。行って1ヶ月経たないうちに、ホントに嫌で辞めたくて精神的にパニックになった。いろんな理由があったが、何よりも身体的にキツい。夜中〜朝働くというのは、長い間生きてきて、あまりない。18歳の時にラーメン屋でやっぱ夜中〜朝働いたことがあったが、あまり記憶に残っていない。(仕事と関係ない、ラーメン屋のマスターと遊びに行ったことなどは覚えているが)。体重が5Kも痩せた。ヴァイオリンのシオちゃんからは「痩せてええ男になった」と絶賛されたが、こんな痩せ方はねぇ・・・。

 最近やっと落ち着いた・・・ような気がする。でもいつまでもこの状態じゃ、とやっぱ別の仕事への鞍替えは考えている。しかし身体がもうボロボロで、アルバイトの業務以外はほとんど寝ていて、何も手につかないので、堂々巡りだ。
 昨年末まで1年間お世話になった「ポン・マリー」とも少し間を置くことになった。
向こう側と何かがあって袂を決裂したワケではない。ただ縁がなかったのだと思う。定期的なライブの場所を無くしてしまった自分にとって、正直言ってもう人の空間を借りてまでライブをやろうとするパワーが出ないし、何よりも気持ち的にも金銭的にも余裕が無くなってしまった。東京のK氏やミュージシャンのO嬢から「借金を返すまでは一度音楽から離れてみては・・」という辛い意見をもらった。頑なにそれだけはできない、と言ってきたが、厳しい現実の日々を送っていると、確かに中途半端にライブをやっていくよりかは、きっちり食べれる仕事をして地道にやるのが正道なのかもしれない、と思い始めている。でも、でもである。地道に正道に今までやれていたとしたら(この場合は世間的、社会的という意味として)ぼくは音楽なんかに関わってないし、元々一度社会というものから、おもいっきりドロップアウトしてたどり着いたのが音楽という表現だったのであり、一体どうしたものかと頭を悩ましている。
同じように喰うということのために音楽以外のことで働く、という行為に適応しない音楽人たちはみんな自滅している。反対に何も考えないタイプもある。それはそれでうらやましい。その日暮らしをできる人は幸せである。自分も切り替えていけばいいのだが、そうはできない。そういうタイプにはならない。
そういうタイプが悪いと言っているのではないが、時にその人達を攻めたくなる自分がいる。人の生き方に文句いえるほど偉い自分か!情けないことだ。

 そんな悶々とする今年に入って、2月8日、渋谷のライブハウス「アピア」のママが亡くなった。大腸ガン、56歳。「まいった」。まいったの一言に尽きた。レッドライオンが無くなってから何故かたくさんの仲間が亡くなっていった。村上ユミ子。家高毅。渋谷浩之。紬のお父さん。行方不明になっていた河野晋平も平成10年に亡くなっていた。

 お葬式に行くと棺桶の中の顔と対面する。それは悲しみというより、ヘンにリアリティのない虚無感みたいなものしか感じない。ユミ子さんの時も家高の時もそうだった。アピアのママ伊東照子さんは髪の毛が白くなった以外は変わらない顔。でも誰かが言った「マネキン」のようで、リアリズムが無い。川崎までトンボ返りで行った葬式。

 そしてその後「ミオン」〜バンドネオンの小川紀美代のツアー、京都でのおおたか静流&Stir upコンサートの舞台監督と、久しぶりに音楽と関わった1週間、やはり「生きてるな」と幸せを感じた。でも「ミオン」は演った場所の問題やメンバー間の意志の相違、何よりも小川嬢の一途な性格のこともあり、かなりぼく自身しんどい状況になって、やはりライブとかプロデュースというものをやることの、より深く考えさせられた。誰が得をして損をするということもないが、損ということでは、ぼくはもう金銭的な損ということでは現実的に無理はできない状態だ。そのほかの意味についての損もいややけどね。

 2月16日の京都のコンサートはピアノ調律の中谷さん、音響の音らんど大谷さんと、「岸田チーム」(と勝手に言っているが)での制作でほんとに素晴らしいメンバーで、一緒に仕事ができてうれしくなる。おおたかさん、黒田さん、早坂さんほかみんなと1年ぶりに逢えたのもうれしかった。コンサート終了後、黒田さんとデート?もした。お酒弱いのね黒田さん。黒田さんのピアノが好きだ。何か一緒にやりたい!とは思うのだが・・。

 この1週間で1ヶ月断っていたお酒を毎晩飲んだ。でももう酔わない体質になってしまって、酒は楽しい時にしか飲むべきではないと思う。

 駄々駄々書きということで、ほんと、駄々グチの文章だったけど、少しは近況がわかってもらえただろうか? いや自分で読み返してもよくわからん! ハハハ・・・。

 現状打破はしたいと前向きには思っている。ライブもやる気力が無いと言ってても、またやるかもしれないし・・・。 

 先日、用事で原マスミさんと久々に電話で話した。いろいろ心配してくれて、あのあまり無駄口の無い人が多弁にぼくのことを心配してくれた。そして一言「きしだくん、音楽やめないでね」  うん、そう、もしかしたら休むことはするかもしれんけど、ぼくは死ぬまで音楽、そして詩、自分のできる表現に一生を捧げます。やめません。原さん、みんないろいろ応援ありがとう。今はかなりしんどくてどうしようもないけど、やっぱぼくってがんばることだけしかでけへんしね。がんばるわ!


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